野生動物と人間がまだまだ対等だった頃
シートン 旅するナチュラリスト
シートン動物記で有名なアーネスト・トンプソン・シートンの幼少期からを描いた伝記的なマンガ。マンガは孤独のグルメや神々の山嶺の谷川ジロー先生によって作画されています。
マンガの時代は19世紀の後半。近代化が進んだとはいえ、未だに手付かずの自然が多く残されていたアメリカ。そこに残された野生動物との交流を描きます。交流と言ってもムツゴロウ王国的な優しいものではありません。銃を持ったとはいえ自然の中では人間は無力。ときに命のやり取りを行うほどまでのエピソードもあります。
このマンガを読んで感じたのが、19世紀末くらいまでが野生動物と人間がまだ対等だった頃なんじゃないかなってこと。今でこそ人間が住むところには野生動物を見ることは稀になりましたが、当時のアメリカはまだまだ狼もいたし熊もいた。たとえ近所の道だとしても、道一本外れるとそこはもう野生動物の世界…そんな環境がまだぎりぎり残されていたのがこの時代背景なんじゃないかと思うんです。
野生動物の鼓動や息遣いが伝わるような、谷口ジロー先生の画力に支えられた描写は読者を一気に19世紀末のアメリカの荒野へタイムスリップさせます。都市化が進んだ今だからこそ、新鮮味や斬新さを感じる物語となっています。
とあるオオヤマネコの話
このマンガは全4巻と短く、各巻1エピソードとなっていてかられる物語自体はさほど多くはありません。その中で最もわたしの印象に残ったのが、第2巻のオオヤマネコの話。
舞台は1875年のカナダ。シートンは当時15歳。シートン少年は知り合いを尋ねてカナダに渡ります。当時のカナダは自然が多く残されており、現在では絶滅してしまったリョコウバトを狩って夕食にするというシーンも描かれています。
このエピソードではシートン少年とあるオオヤマネコとの出会いと別れを描いてきます。心温まるようなロマンチックな物語ではありません。ともすれば命を奪われかねないような状況下での物語です。
オオヤマネコによる家畜の食害が発生している村。シートンは散策中に無邪気に遊んでいる、オオヤマネコの仔猫を発見したシートン少年は「ここでこの仔猫を殺さなければ、成長したときに食害をまた発生させる…」と葛藤します。この仔猫との出会いがきっかけとなってストーリーは進んでいくのですが、物語の結末はシートンの人生に大きな影響を与えます。
オオヤマネコの仕草や表情、自然をありありと描く谷口ジロー先生の画力は読者を遠く、19世紀のカナダにタイムスリプさせてくれます。
自然の存在感が急速に薄れていった20世紀
シートンが動物記を著したのは19世紀末。それからわずか100年余りでアメリカの自然は大きく変わってしまいました。当時は野生のリョコウバトやハイイロオオカミだって生きていました。その後、わずか数十年のうちにリョコウバトは絶滅し、オオカミも一度は絶滅しました。
このように一気に人間の勢力が強まり、自然を圧倒していった時代とも言えます。このマンガはその人間の勢いが急速に強まる瞬間を描いているように感じます。シートンが幼かった頃は野生のオオヤマネコに命を奪われかけるくらいの経験もしましたし、オオカミによる被害だってまだあった頃です。
人間の生活圏と未開の動物たちの領域が今よりも、ずっと密接だったのでしょう。人間と動物の関係が近かったからか、動物たちが人間のように描かれているように感じます。狼王ロボの話やとある熊の話。どちらも人間のような感情の揺れ動きが絵から伝わってきます。
このマンガを読んでみて
シートン動物記って名前は聞いたことはあったのですが、こんなふうにじっくりと(数エピソードだけですが)読んでみたのは初めてです。シートンがイギリス生まれだったことや画家としてパリで修行をしていたことなんてことも知りませんでした。
これまでに何度もシートン動物記はマンガ化されたり、絵本になったりされてきました。このシートン動物記のマンガは動物そのもの以上に自然のあり方や姿を描き、かつてあった動物の世界をリアルに奥深く映し出していると感じました。シートンは生まれたイギリスを離れ、パリ留学を経て、カナダやアメリカと旅しました。だから表題に「旅するナチュラリスト」と書かれているのでしょう。
普段はなかなか手に取らないようなマンガのタイプでしたが、読んでみて大正解の満足度の高いマンガでした。動物はほとんど出てきませんが、同じ谷口ジロー先生が描いた神々の山嶺もおすすめですよ。