有名な科学者が神を信じていたからといって、すべての科学者がそうだとは言えない。
科学者はなぜ神を信じるのか コペルニクスからホーキングまで
科学は物事に神の力を借りずに説明を与えることなのに、どうして神を信じるのか?という質問されたことを発端に書かれたのがこの本。
著者は三田一郎先生。Google検索すると関連検索に「ノーベル賞」が出てくるくらい超優秀な素粒子物理学者です。
過去にノーベル賞を受賞した小柴先生ともつながりがあります。
そんな三田先生はキリスト教徒。
科学の一分野で超一流な三田先生がどうして神を信じているのか。
そこに神と科学で矛盾は起きないのか。
そういった疑問にこの本は解説を与えてくれます。
科学の歴史を紐解いていくと、神と科学は切っても切り離せないことがよくわかりました。
この本はピタゴラスの時代からアインシュタインの時代まで科学の歴史を振り返っていきます。
その時々の宗教観と科学の関係を引き合いに出し、神と科学の関係の変化を丁寧に解説していきます。
神と科学との関係の変化や科学者の宗教観を通して、当時の科学者はどうして神を信じるのか、ということを知るのは新鮮な驚きと発見でした。
もちろん、ガリレオやニュートンと話したわけではないので推測することしかできませんが、共感できる解説でした。
最初に断っておくと、この本で語られる「神」というのは日本の「神」の概念とは少々異なるものだと認識しておく必要があります。
釈迦や氏神様のようなイメージをもって読み進めるのではなく、もっと西洋よりな「神」のイメージの方がしっくりきます。
神への信仰心が科学を成長させた
「どうしてこれがこうなっているのか」を知りたいと言うのが科学者に限らず、思ったことは無いでしょうか。
どうして月は満ち、欠けるのか。
どうして太陽は東から登るのか。
どうして宇宙はこうなっているのか。
どうして…
どうして…
こういった疑問に対して万能の答えがあります。
「主がお決めになったからですよ」
しかし科学者はこの答えに満足しませんでした。
神とか超越した力を引き合いに出さずに人間の言葉で説明を与えていこうとします。
知らないボードゲームを横から見てルールを推測していくかのように、観察と仮説と実験を繰り返していきます。
生きていくためには月の満ち欠けや星の運行なんてあまり関係ありません。
ご飯や安心できる寝床のほうがよっぽど重要です。
でも科学者は生活そっちのけで研究に没頭します。
コペルニクスにしろガリレオにしろ、人生の大部分を科学に捧げた大科学者のモチベーションは何だったかというと「誰かが作ったこの世界のことをもっとよく知りたい」ということだったといいます。
今でこそ神と科学は分断されているように感じますが、中世はまだそんなことはありませんでした。
「神はどうしてこの世界をこんなふうにしたのかを知りたい」
この一心で科学者は研究を行ってきたといいます。
神への信仰心があったからこそ、科学が発達したのです。
現にコペルニクスもガリレオも熱心なカトリック教徒だったといいます。
神の領域を科学が埋めていく
「神の作ったこの世界のことをもっとよく知りたい!」そんな信仰心から成長していった科学ですが、困った団体がいました。
教会です。
科学によって、いろいろな自然の現象に人間の言葉で説明が与えられてくると神への権威が薄れてきます。
神への権威が薄れれば教会の権威も同じように弱体化していきます。
「どうして月は満ち、欠けるの?」ときかれて「それは神様の思し召しだからだよ」と言えていたのが、人間の言葉で説明を与えられるようになってきたのです。
教会にとっては神が全て。
神のお言葉である聖書の解釈を変えることができません。
また当時の聖職者には議論の場に立つほどの知識もありませんでした(当時の最高水準の知識を聖職者に求めるのは酷すぎますが)。
だったら科学の方を変えちゃおう、という判断によって科学者は持論を撤回させられます。
ガリレオの裁判など特に有名ですよね。カトリック教徒だったガリレオが教会から爪弾きにあったのは相当ショックだったことでしょう。
この展開が強烈過ぎて神vs科学という構図が定着してしまい、21世紀まで続いて来たように思います。
ただし正確に言えば教会vs科学者であって人間同士の争いなのです。
知りたいという思いは止められない
科学への風当たりが強くなってきても科学者は研究を止めることはできません。
なぜなら彼らも熱心な教徒であり「主が作ったこの世界のことをもっとよく知りたい」という思いがあったからです。
ケプラーは惑星の運行を、ニュートンは物体の運動を、完璧に計算できることを示しました。
どんどん自然の現象に説明を与えることができるようになります。
「光あれ」と聖書の最初に出てくるこの光にもアインシュタインによって説明が加えられます。
いよいよ教会は困ったことになり、ついに教会は聖書の解釈を変更します。
科学の進捗によって聖書の解釈は変わるべきであると教皇が認めたのです。
科学者の歩みの第一歩は「主が作ったこの世界をもっと知りたい、理解したい」という思いからでした。
だから神と科学は対立しないし矛盾しない。というのがこの本のあらましです。
教会と神を混同しないことが重要です。
この本を読んでみて
わたしは最先端の研究などやったことが無いのですが、たしかに「この自然というやつはよくできている」と思ったことがあります。
平均以下の学生の時の自分ですらそう思ったのですから、最先端の量子力学や宇宙について研究している人からしたら「どうしてこんな風になっているのか」と誰かの意思を感じるかもしれません。
その誰かこそが神なのだと三田先生はいいます。
三田先生はカトリック教徒なので、その誰かとは聖なる父になるのでしょう。
ただ、わたしにはどうしても、そこがしっくりとこないです。
その「誰か」という擬人化を行っているのは、結局は人間じゃないかと思うんです。
また科学者が神を信じるのか、というのもちょっと誤解を招きそうな書き方です。
「神を信じる」と書けばキリスト教やイスラム教、仏教の神様を、つまりは何らかの宗教に属していたという解釈を与えかねません。
有名な科学者が神を信じていたから、科学者全員が神を信じているってのも強引すぎますよね。
加えて、この本に通じて神というのは、この宇宙を作った(かもしれない)意思のようなものを指しているかのよう書かれています。
「その意志はきっとなにかの宗教の神」だから神を信じるという風にややこじつけっぽく感じられたのはわたしだけでしょうか。
結局「なぜ科学者は神を信じるのか」という問いの答えには疑問符が付きましたが、宗教観と科学の歩みを驚きと発見を持って読み進めることができました。
また、こういった一歩間違えば炎上したり、身に危険が及ぶかもしれないというテーマをここまで丁寧に描き切れているのは勇気のいることだし、本当に素晴らしいと感じました。
神と科学は確かに矛盾しないとも納得できましたし、読んで見る価値は十分にありました。
最後に、ちょっと思ったことをひとつ。
科学者は神(がいたとして)が作ったものを知り尽くして神を理解しようと、知ろうとしています。
では、もし神が作ったものを残り残さず研究しつくして完全に理解したとして、それは神を理解したということになるのでしょうか?
神を知ったということになるのでしょうか?
例えばモナリザを完全に研究しつくし、原作と同等のモナリザを描けるようになったとしても「ダ・ヴィンチを知った、理解した。」ということにはならない気もするのですが。