科学はどこまで挑戦が許されるかを問う。
アルジャーノンに花束を
学生時代に配属された研究室の外国人の教授から「研究者の端くれを気取るなら、これくらい読んでおけ」と渡されたのがこの本。原著だったので速攻で諦めて近くの本屋で日本語版を購入。それから何度か読み直しているけれど、やっぱりいいなぁ…ってしみじみしてしまう本になりました。
ネタバレ無しの概要
日本でもドラマや舞台になったので名前だけは知っている人は多いかもしれませんね。この物語は知的障害を生まれ持ったチャーリィの日記形式で進んでいきます。これはチャーリィが知能を高める手術の経過を観察するためのものでした。無事手術は成功し、わずか数ヶ月でIQ68だったチャーリィはIQ180を超える天才に生まれ変わります。
知能の伸びは著しく、自分の手術の執刀医よりも知的になるほどでした。でも人を思いやるような精神的な成長はそれに追いつかず、周囲の人間と衝突してしまいます。また、友人だと思っていた人たちが、ただ知的障害を持つ自分をからかっていただけだと知り苦しみます。また、手術にはまだ解明されていない副作用があったのです…
この物語を通じて見えるのは3つ。知能を人工的に高める手術という「科学」。手術を経て変わっていくチャーリィを去った人間、残った人間を描く「愛」。そしてチャーリィのような障害を持った人間を生んだ「神」です。
神・科学・人間愛
この物語の秀逸なのが、「神」「科学」「人間愛」を上手く織り交ぜながら読者に考えを与えるってところなんですよね。
神と科学についてですが、物語の序盤にこんなやり取りがあります。「わずかしか与えられていない人間に…」これは科学者たちが今からやろうとしていることは神への挑戦なのではないかと自問するところ。科学はどこまで挑戦できるのか。今からやろうとしていることは神の領域に踏み込む行為なのではないかと問いかける象徴的なシーンです。
次に人間愛。知能が低かったチャーリィは(チャーリィ自身はそう思っていた)友達を持っていましたが、知能が高まったチャーリィは友人を失います。「知能指数なんてものはただのカップの目盛りだ。カップの中に何が入ってあるかが大事なんだ」「思いやりの伴わない知能は虚しいだけだ」という考えにチャーリィは気づきます。
この本を読んでみて
学生時代にこの本を読めといった先生の意図が少しわかるような気がします。だってこの本に描かれているのは、まさに科学はどこまで挑戦していいのかってこととその挑戦に愛はあるのかい?ってことだからです。
卒論にせよ、修論にせよ、研究者の端くれとしての研究を進めるのであれば、この精神を忘れるんじゃないぞって、当時の先生は伝えたかったのかもしれません。
余談ですが、この物語、担当編集からの指示でハリウッドもびっくりの超展開が発生して超ハッピーエンドで終わる予定だったそうです。でも結末を変更するくらいなら出版自体をしないと著者が拒絶した経緯があるらしいです。
確かに物語はハッピーエンドとは行きませんでしたが、この終わり方を持ってして神・科学・人間愛が描ききれたってもんです。SFとしても読みやすい部類に入るので、SF初挑戦の人にも自身を持っておすすめできる良書です。