認知能力に問題がないといつから錯覚していた?
ケーキの切れない非行少年たち
丸いケーキがあったとして「ケーキを等しく3つに切り分けてください。」と言われたらどんな風に切り分けるでしょうか?
正確でないにしても、だいたい3等分に切り分けることができるでしょう。
でもそれが出来なかったのが少年院に入っている少年少女たち。
本の帯にもありますが、ケーキを上下半分に切り分けて下半分を更に半分にする…などの思っても見ない切り分け方をするのです。
なぜこういった切り分け方をするのか。
これは彼ら彼女らがふざけてやっているのではなく、本気で考えてそうなっているのです。
少年院にいる子どもたちの認知能力が軽度の知的障害レベルいうとに気づいた著者は愕然とします。
なぜなら少年院で行われている矯正プログラムは「認知機能という能力に問題がないこと」が前提として考えられていたからです。
認知能力に問題がある彼らに対して一体どういう支援ができるのか。
今ある教育にどのような問題があり、どうして非行少年を生んでしまうのか。
現場の人間が記した言葉には重みがありました。
教育の敗北
この本に出てきた印象的な言葉が”教育の敗北”という言葉です。子どもが少年院に行くということは”教育の敗北”だと言うのです。
少年院に行く少年少女たちは、いきなり非行に走るわけではありません。
少なくとも義務教育を小中学校の9年間を受けているのですから、非行に走る前に気づいてあげるということが出来たはずなのでは?と考えてしまいます。
少年院の少年がとある図形を模写するように指示を受けました。
図形は多少複雑ではありますが、難しい課題ではありません。
ですが少年が模写した図形はお手本とは似ても似つかないグチャグチャの図形だったのです。
このような少年はどんな風に世界が見えているのでしょうか。漢字を正しく読み書きできるのでしょうか。学校の勉強についていけるのでしょうか。
学校を爪弾きになった少年が非行に走り、行き着いた少年院でも能力に適さない矯正を受けますが、そのプログラムが彼らのレベルに適していないので結局また少年院に戻ってきてしまいます。
成人になってしまえば刑務所です。
納税者として国家に貢献してほしいのに、結局は税金で生かされているだけの受刑者となってしまうのです。これを教育の敗北と言わずして何というのでしょうか?
被害者が被害者を生む
非行に走ってしまった子どもたちは、いきなり非行に走るわけではありません。
認知能力の低さから学校の教育についていけなかったりして、いじめの対象となってしまうのです。
そして、そのいじめのストレスで非行に走ったというケースが非常に多いのだそうです。
この本の調査によれば、性加害者の95%はいじめ被害にあっており、
「まさに被害者が新たな被害者を生んでいた」
ということになっています。
関連する本
この本の中によく出てきたのが「反省させると犯罪者になります」という本。
非行少年が、「反省できるだけでも上等ではないか」とすら言われています。
反省以前に自分が行ったことが全く理解できていない、認知できていないということです。
子供に関する本では「AI vs 教科書が読めない子どもたち」という本も関係があるかと思いました。
こちらは認知能力については語られていないのですが、本来ならば人間のほうが優れているとされている読解力などがAIによって覆されつつあるという本です。
この本を読んでみて
非行に走る子どものIQレベルは軽度の知的障害なのでは?と思うようになりました。
実際に本の後半で、何を基準として知的障害者とするべきかという議論にも発展しています。
知能を押しなべて数値化したIQなどではあまり有効ではなく、実際にはある能力だけが著しく劣っているなどがあるそうです。
本当は支援が必要なのに支援を受けられていない知的障害の子どもたちが実はまだまだいるのではないかと著者は危惧しています。
教育に携わる大人たちが如何に早く気付けるかが大切です。
軽度の知的障害とはい言え、正しい処置を経れば普通の生活は可能だといいます。
少年院での授業中、あまりにも荒れた少年がいたので、教卓に立たせて授業をさせたことがあったそうです。
著者は「こんなに授業は大変なんだぞ」と言うことを教えるためのお仕置きのつもりだったのですが、他の少年たちが「僕もやりたい」と次々と志願してきたのです。
非行少年たちは「頼りにされたい」「人に教えてみたい」という気持ちはずっと持っていたのです。
そういった気持に気づけず、少年院で初めて気づくというのはやはり”教育の敗北”ということなのかもしれません。